レムリアルネッサンスへの素朴な?をつづります
レムリア・ルネッサンスへのつっこみ

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教えに求められる「無謬(むびゅう)性」

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宗教というものは、難しいものだ。なぜ、難しいか。その人の全人生に影響を与えてしまうからだ。

神の教えであればこそ、人々は、その教えを拠り所とし、その教えに則って生きようとする。

単なる、道徳でも、自己啓発の思想とも違う。神という権威からそれが発信されているものであるという、その立脚点に由来する。

であればこそ、神の教えには、誤りが含まれていてはならないのだ。それが多くの人の魂に対して悪影響を与えるからだ。言葉を変えれば、人生を狂わせるからだ。

レムリア・ルネッサンスの教えには、残念だが、「誤り」が含まれている。「悪の肯定」「悪の擁護」「善悪の迷妄」がそれであり、魂修行にとって致命的と言わざるを得ない。

そして、述べてきたように、たとえそれが一文であろうが、「過てる教え」が紛れ込めば、人の人生観を狂わせ、価値観を狂わせ、ひいてはその魂を地獄に導くには十分である。それは「悪魔」としては、仕事を果たせり、といえるものとなる。

ゆめゆめ、心したい。ルシファーを擁護するという教えが、「地獄の帝王」を擁護する言説が、なにゆえに、神の業であるのだ。天上界が、なにゆえに、そんな教えを説かねばならないのだ。迷妄、きわまれり。

悪を肯定してはならない。悪に屈してはならない。悪に踊らされてはならない。

神は無限の善である。人は善を選ばねばならない。悪と同化しては断じてならない。



 


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テーマ:スピリチュアル  - ジャンル:心と身体

  1. 2010/02/24(水) 00:32:39|
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レムリア 悪の擁護、悪の肯定 に堕す

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 レムリアルネッサンス、アマーリエ女史の著書を読んだ感想を。


 まず、アマーリエという人の個性、思想の限界が出ている気が非常にする。思想というものは、正直に、その高みというものが出るもの。著作という形になると、やはりだいたいこのくらいの「認識力」なのね、というのはごまかせなくなる。

 私は、「仏法真理」と呼ばれるもの以外に、3500冊ほど、良書と呼ばれるものを求めて、読書を続けてきた。いまでもそうした努力は重ねている。

 旧約、新約の聖書、四書五経、ソクラテス(プラトン)の哲学、まあ、岩波書店や、中央公論の名著とよばれるもの、また三笠書房、PHP、大和書房、飛鳥新社、海竜社などの現代的な良書、その他、社会学、経済学、政治、法律、心理学、仏教、中国古典、そうしたものを学んできた。

 偉人と呼ばれる人の思想の、なにが大きな影響力を与えるのか、人を救うのか、人の魂を救うのか、それを自分なりに純粋に求めてきた。

 そうした目から見ると、申し訳ないのだが、「一主婦のスピリチュアル・エッセイ」のように見える。アマーリエという方が、その生涯に学んだことをベースにして、多少の、霊的インスピレーション、イメージングの力で、つづっているもの、そう見える。



 また、大川隆法の著作をベースにしている(言葉を変えれば、パクっている)部分は、おかしさをあまり感じないのだが、オリジナル部分になると、首をかしげてしまう内容が出てくる。

 虚心坦懐に、その教えで、もって真に人は幸福になるのか、世界は光に満ちたものになるのか、それを考えると、逆ではないかと思える部分がある。

 ずばり言おう、「悪の肯定」という、なんとも初歩的な価値観のすり替えが、教えに入り込んでいるのだ。悪を悪と思えなくなる、善と悪の違いがわからなくなる教えである。これはどういうことか。「悪」への親和性が魂に生じるのである。こうした教えを学び、あの世に帰るとどうなるか。それをよく考えたほうが良い。

 この世で得るべき智慧とはこの三次元という物質世界のなかで、「悪」なるものを選ばずに、「善」なるものを選ぶことより生まれるのではないか。物質世界においても、本来のあの世の価値観で生きられるか。善なる世界の価値観を選ぶことができるのかに挑戦し、魂を鍛えているのではないか。

「悪の肯定」、これは魂にとって、大きな毒水である。

 毒水を見抜けない時点で、修行者としては魔境に落ちたと考えざるを得ないだろう。

「悪を肯定」してはならない。「悪を擁護」してはならない。


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  1. 2010/02/21(日) 00:20:04|
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は??「ルシファーとともに生きましょう」??

レムリア・ルネッサンス アマーリエ
「光ある愛の星にアセンション」

「ルシファーとともに生きましょう」
(p217)



うーむ、なんなんだ、この教えは。




ところで、

地獄には、ルシファー以外にも、イエスを試したベルゼ○フ、

釈迦の成道を妨げたパーピ○○・マーラー

そうした大物がいるという。


それにしても、レムリアの教えには、

なぜに

ルシファー「ばかりが」出る。

こんなに多く。

しかも、「擁護」の姿勢で。





??

???



ふつうの知性で考えれば、

答えは見えるのでは?????



こわい、こわい。

 


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  1. 2010/02/20(土) 01:25:25|
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悪魔が望むなら、喜んで滅びる???

レムリア・ルネッサンス アマーリエ
「光ある愛の星にアセンション」より


「彼ら(魔界の者たち)とともに、もし星が滅びるのならば、わたくしは彼らと一緒に滅びましょう。」

「あなた方が、そして、もし魔界の者たちが、「それをしたい」と、「そうしなければ、神の子として気づけないのである」と、「愛を学べないのである」と言うのならば、喜んで滅びましょう。」
(ともにp223)



出た、智慧のない「許し」。


一見、愛のように見えて、これは愛ではないよ。

悪の助長であり、幇助だと思うね。



どうもこのアマーリエという方の、母というもの、母性というものの理解が、「ゆるい」。

「母」というのは優しいだけではないよ。

道をそれようとするわが子を、体をはって、引き戻そうとする強さも持っているもんでしょ。

そうではないですか?



キリストは愛を説いたけど「悔い改め」を求めたよね。

また、光一元というのは、決して「悪」の受容ではないでしょ?

ガンジーもまた、無抵抗主義でもって、「改心」を迫ってたでしょ?

改心できないものに、同調して、彼らが望むなら滅びる、それが本当に宇宙の法則にかなうと思いますか?


仏性の、神性の可能性を信じる、その点において、無限の信頼を置く、そしてそうした彼らを、光に向けて、一歩でも近づけんと働きかけをする点に愛というものの本質はあるのではないだろうか。



「悪」と「善」の境界をどうもあいまいにする方向にもって行こうとするね。

「愛」の進化というのが、いいんですよ、いいんですよ、あなたを愛しますよという、「慈悲魔」になる方向を志向する。

そうではないでしょ。愛は、人を育み、向上させずにやまない力ですよ。

「許し」という教えが、悪用されている。そうは見えないのだろうか。

そういう教えを説くことで、「誰が喜びますか」ということですよ。


結局ね、仏神ではなく、そうでないものに都合のいい話になっている。


悪魔にとって都合のいい教えが、どうしても混じるね、この方の教えには。

こわい、こわい。


 


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テーマ:スピリチュアル  - ジャンル:心と身体

  1. 2010/02/20(土) 00:40:37|
  2. 光ある愛の星にアセンション
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無限の「赦し」という危うい教え

レムリア・ルネッサンス アマーリエ
「光ある愛の星にアセンション」より

「地球がこのようなリスクを負ってでも、究極の二元論というものの中において、多くの者たちを受け入れるという、無限の赦しと受容性というものを・・」
(p148)

「でも、恒星意識の聖アントニウス様は、そのルシでさえ受け入れ、無限の赦しの中で、彼の素晴らしさを認め・・」
(p149)

「愛情が欲しくて欲しくて、暴力を振るい続け、親を殴り続ける、引きこもりの青年たちが最近多いでしょう。あれはまさに、ルシの姿そのものなのです。愛を求めているのです。」
(p158)



「無限」の「赦し」という、また危ない教えが。
そして、ルシファーを反抗期の青年のように描く。

消極的悪と、積極的悪を、同じに扱う。
矮小化しすぎではないかい。


悪が悪であるゆえんは、他を害してしまったから。

その悪により、被害を受けてしまった他の人はどうなるの?
悪により、家族を失い、その悪を基点として、新たな憎しみが生まれる。
単なる若げのいたりで、すむ問題ではなかろうに。


そうした人々に、迷惑をかけ、その人たちをふみにじった
ことは、不問でいいとは思えない。
やはり、少なくとも、心からのお詫び、反省、悔い改めが必要だと思うのだか?


反省し、悔い改めたものを、赦すのが赦し。
悪をなしたことを不問にし、
うやむやにするのが、「愛」ではないよ。
それで苦しみ、恨んでいる人が、大勢いるのだから。


そして、章の最後がこれである。

「でも、わたくし(ミカエルとのこと)は、どうしても彼(ルシファー)を憎むことができない。
(p159)

「ルシという男を、どうか受け入れてやってほしいのです。」
(p161)


→この教えで、得をする人は誰かを考えてみる。


 それは、ルシファー?



罪を憎んで、人を憎まずという。
人の仏性を信じるは当然。
しかし、なした罪に対するつぐないは、必要である。
己の罪の自覚、心からの悔い改めがいるでしょう。
そして、それは本人がやるしかない。



一部分でも、狂った教えを挿入できれば、目的は果たせるのだ。
一部の欠陥が、大勢の人を迷わし、狂わすから。


こわい、こわい。

テーマ:スピリチュアル  - ジャンル:心と身体

  1. 2010/02/12(金) 22:00:06|
  2. 光ある愛の星にアセンション
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